DWEブルーCAP
DWEを始めてから約一年。上の子がブルーCAPのテレフォンイングリッシュをPASSしてブルーCAPをゲットした。(まだ届いていない)
4歳になる前にブルーCAP取ろうよ!と言いながら、「録音とかよくわかんないからやって。」という妻の応援が後押しになった。
録音できそうな時に限って子供のご機嫌がナナメな事もよくある話で、あまり焦らずにまったり進める事をオススメしたい。
・とにかく朝一はsingalongのCDを流し、ご飯を食べたらDWEのDVDを見せる(たまにゴネて違うのをみることもある)
・週一で英会話教室に通う(DWEではない)
・玄関にtalkalong cardがあって、出かける時に一つ復唱する。(最近ここで録音しておくようにした)
特別やったのはこのくらいだろうか?
僕自身英語を聞く機会が増えたおかげで、海外のお客さんが来た時に会話が多少できるようになってきた。語彙が足りずに言いたいことがうまく言えないことも多いけども、少なくとも聞く方は割と何とかなるようになった。
子供の方はというと、突然英語で歌い出したり、独り言を言い出したりして英語ですらない事もある。
未だに数字くらいしか文字が読めないので、絵と音のみでよく身につくもんだなぁと思いつつ、親がまともに話せないので、今後は「英会話」をする機会をどのくらい用意できるかが重要かと思う。
ブルーCAP最後の課題のテレフォンイングリッシュは「何だっけ?」とか言いながらギリギリ答えていたのだけど、これは先生によっては通らないかもしれない。(1回目は詰まっているので、横で教えたらバレて却下された。答えの単語を言わなければいいのかもしれない。)
2017-5-16追記
キャップが届かないと思って調べたら、4月のCAP応募がすでに3件だったので、合格が無効になっていたみたい。
電話は別枠なのかと勝手に勘違いしていたので、チャレンジする方はお気をつけください。
結局ゴールデンウィーク明けにリトライしたら、子供が完全に忘れていて終始グダグダで不合格。
事前に練習してからの電話でなんとか合格になった。
エラー画面
セブンアンドアイ系列のお店にペットボトル回収BOXがある。
ペットボトルを入れるとポイントが貯まって、nanacoポイントに変換出来るので、行くたびに溜まったペットボトルを投入しに行くミッションを仰せつかるのだけど、甚だ効率が悪い。ペットボトルの日にゴミ捨て場に持っていくだけの方が明らかに楽だ。ペットボトル250本をセブンアンドアイ系列のお店に持って行って、1本ずつ投入する手間をかけて50円ぽっちだ。取り敢えず子供が飽きるまでは続くだろうとは思うが、今の所はまだまだ続きそうだ。という事は最初書くつもりがなかったのだけど、ペットボトルを捨てる場所の話をしようとしたら、思わず不満が出てきてしまった。
で、この前の連休最終日の夕方に何時ものようにペットボトルを抱えて持っていくと、列が出来ていた。どうやら連休中の物量に耐えられず一杯になってしまったらしく、インターホンでお店の人を呼んでいるところだった。
お店の人は回収BOXを空にして戻すのかと思いきや、中の潰されたペットボトルを手でギュギュっと押し込んで戻しただけだった。
前に並んでいた人は数本入れるだけだったので、それでも問題なく回収されたが、自分の持っているのは数十本。まぁ無理だろうなと思いながら、半分くらい入れたところで満タンになってしまった。近くで待機していたお店の人も、他のお客さんの対応をしている様だったので、諦めて帰ることにした。
その時に出ていたエラー画面がこれなのだけど、
何故この画像を使おうと思ったのか。
お店の人とお客さんが揉めている状況でこの画像が表示されていたらなかなか趣深いかもしれない。
右のお姉様の迫力が凄いし、左のお姉様は若干煽り気味な様にも見える。
オリジナルで用意した画像なんだろうか?とか、余計なことを考えしまい、ペットボトルどころではなくなってしまった。
皆様もいつもよりちょっと多めにペットボトルを投入してみてはいかがだろうか?
ブログ運営報告2016年5月度
今日の一枚
我が家にDWEが実装されました。
書く自分、読む自分
今週のお題 2016-04-23
今週のお題「私がブログを書く理由」
このまま書き始めればいいのかな?
ブログを書き始めるきっかけは昔書いたけども、丁度自分にとってブログを書くという事がどういうことなのか、何となくここ数日、もしくは数週間、もしくは数年考えていたタイミングなので、このブログは書き始められた。
「私がブログを書く理由」という文の意味を考えると、書き始めるきっかけでもなく、「書いている」最中でもなく、「書く」という動作の瞬間を切り取った状態の理由・原因は何なのか?という事だろうか?
私は頭が悪いので間違っていたら誰か教えてください。返事はしないかもしれないけど。
「書く」という動作の瞬間だけを切り取ると、意図が分かりにくいので、見方を変えて「なぜ私のブログは書かれたのか?」と書き換えてみると、また違ったイメージになるだろうか?
私のブログが書かれた理由は何だろうか?
そういえば以前に、文章を書く事を摂食・消化・排泄に例えた事があった。
インプットがあり、プロセスがあり、アウトプットがあり、再度インプットされ書き直しをする様はさながら自慰のようでもあると思った。プログラムのループなんかもそうなんだろうか?よく知らないが。
私がブログに書く文章はそういう類の物なので、仕事で書く文章や私信とは違った意味合いを持っている。
私にとってブログを書く事は目的となってしまっているのだ。
誰かに何かを伝える為の手段としての「文章」を書くために、「ブログ」を書いているのだ。
「ブログ」は「文章」なので、「文章」を書くために「文章」を書いているか「ブログ」を書くために「ブログ」を書いているかのどちらかだ。みんな「生きる」ために「生きている」のでよくある事だろう。
手段が目的化してしまう事は、通常よろしくない事であるが、目的をどこにでも取ることが出来るものがある。
「趣味」である。
「趣味」である限り「文章」を書くために「文章」を書く事が出来るのであるけれども、ここで「ブログ」という公開されている状態に「文章」を放り込む事の意図がポイントになってくる。
「ブログ」に「文章」を放り込む事によって、何らかの反応・反響といったものが返ってくる「可能性」がある。
私はその反応・反響に影響されたくないので、できる限りその「可能性」が低い状態が望ましいと思っている。
それでもその「可能性」がある事によって、ある程度(拙いながら)文章に形を整えようという圧力をかけているのであると思われる。
これが守られた安全な空間で行われる文章の構築であれば、外圧の無さにより形を保てないのではないだろうかと思う。
なのでブログに書こうとして下書きのままのメモなどが散らかっているが、それはそれでいいと思っている。
書ききれなければ、何か足りない物があるという事で、足りないパーツをどこかで見つけるきっかけにもなるだろう。
「ブログ」を書こうとしてモヤモヤっとした何かを、「文章」という物に構造化する事によって、自分の考えを定着させ、眺める事が出来るようになる。
私がブログを書く理由とは何か?
私は、私の考えを知りたくてブログを書くのかもしれない。このように私の考えは穴だらけなのである。
これを見直すのはめんどくさいな。