inactionのブログ

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不適応

「今のままがいい」を、時間が引きずっていく - シロクマの屑籠

 
上記リンクを読んで今のHNを使い始めた理由を思い出した。(その頃はブログではなくネットゲームをするくらいだったけども)
以前そのあたりをブログで書いたこともあったけど、この機会にまた何かしら書いてみようと思った。
 
 
何かにつけ理由をつけて行動を起こさなかった自分への戒めとして、inaction=不活動、行動を起こしていけるようにという願いを込めてin action=活動して、という両方の意味を持つ名前をつけた。
 
今にして思うとクセー話ではあるのだけど、その当時はなんだか大真面目でウダウダと悩んでいたようにも思う。丁度草食系男子とかいう言葉が流行ってきた頃だっただろうか?シロクマ先生の文を読んで、なるほどあの頃のアレは「不適応」と呼べば良いのかと納得がいった。
 
中学まで成績も運動神経も友人関係も特に努力せずとも中途半端に上手く行っていた自分は、親からの承認欲求が満たされないまま何となく高校に入り、浪人後大学デビューを失敗し、学費が払えずに中退して腐りかけていた自分は「不適応」の壁にぶち当たっていたのだろう。
 
大学を辞めるにあたって、初めて自分の人生が「このままじゃヤバイ」ということに気づいた。大学を辞めてまともな職にも就けず、バイト先もいずれ居づらくなって親も死に、ホームレスになって童貞のまま死ぬのか、と。それはそれで悪くないなとは思ったけど、最悪のケースを飲み込みさえすれば、とりあえず腹を括って出来るだけのことはやってみようと思った。もちろん、今までのほほんと生きてきた人間が、いきなり色々できるわけがない、それで冒頭の自分への戒めという話に繋がる。動かないために動くんだとか、わけの分からない事を口走っていた記憶がある。
 
 
「このままじゃヤバイ」と自分を変えていこうとすることは、生きることそのものなのだと思う。いくら頭で「このままでいい」と思っても、身体は「死」に向かって変化し続けている。変化し続けている身体によって「このままじゃヤバイ」と思わされているとも言えるかもしれない。
 
 
ところで自分を変えていくってどういうことだろう。
件の大学生が10年後に何とか職にありついて2児の父としてかろうじて生きているわけだけども、ただの運だったという可能性は一旦置いておいて、何かしら行動したということがやはり大きかったのではないかと思う。変わった部分もあるし変わらない部分もある。10年経っても変わってない部分はもうどうしようもないかもしれない。そのどうしようもないと思っている部分が火種になって、痛い目に合うこともあるだろう。それもまた一興。
 
 
意図的な行動により、動作主体感といったものが得られるそうだけど、これは身体の動作のみではなく、自分の人生といった概念にも適用されるように思う。意図的に自分の人生に介入することにより、たとえ行動が失敗であったとしても、自分の人生を生きているという主体感が得られるのではないだろうかと思う。
 
 
行動とは目標に対する動作(活動)の想定と結果のフィードバックによる動作の修正、修正された動作による目標の再設定。これはPDCAそのものであり、目的は生きること。
生きることとは変化していくこと。変化することとは行動すること。行動することとは生きること。変化を拒否(停止)するということは死と同義ではないだろうか。
 
 
なんだか後半のまとまりが無茶苦茶になってしまったけども、この辺りは「唯脳論」と「ミラーニューロンと心の理論」を読んで大きく考えさせられたところです。
唯脳論 (ちくま学芸文庫)

唯脳論 (ちくま学芸文庫)

 

 

ミラーニューロンと“心の理論”

ミラーニューロンと“心の理論”