inactionのブログ

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今週のお題 2016-04-23

今週のお題「私がブログを書く理由」


このまま書き始めればいいのかな?

ブログを書き始めるきっかけは昔書いたけども、丁度自分にとってブログを書くという事がどういうことなのか、何となくここ数日、もしくは数週間、もしくは数年考えていたタイミングなので、このブログは書き始められた。


「私がブログを書く理由」という文の意味を考えると、書き始めるきっかけでもなく、「書いている」最中でもなく、「書く」という動作の瞬間を切り取った状態の理由・原因は何なのか?という事だろうか?

私は頭が悪いので間違っていたら誰か教えてください。返事はしないかもしれないけど。

「書く」という動作の瞬間だけを切り取ると、意図が分かりにくいので、見方を変えて「なぜ私のブログは書かれたのか?」と書き換えてみると、また違ったイメージになるだろうか?

私のブログが書かれた理由は何だろうか

そういえば以前に、文章を書く事を摂食・消化・排泄に例えた事があった。

インプットがあり、プロセスがあり、アウトプットがあり、再度インプットされ書き直しをする様はさながら自慰のようでもあると思った。プログラムのループなんかもそうなんだろうか?よく知らないが。

私がブログに書く文章はそういう類の物なので、仕事で書く文章や私信とは違った意味合いを持っている。

私にとってブログを書く事は目的となってしまっているのだ。

誰かに何かを伝える為の手段としての「文章」を書くために、「ブログ」を書いているのだ。

「ブログ」は「文章」なので、「文章」を書くために「文章」を書いているか「ブログ」を書くために「ブログ」を書いているかのどちらかだ。みんな「生きる」ために「生きている」のでよくある事だろう。

手段が目的化してしまう事は、通常よろしくない事であるが、目的をどこにでも取ることが出来るものがある。

「趣味」である。

「趣味」である限り「文章」を書くために「文章」を書く事が出来るのであるけれども、ここで「ブログ」という公開されている状態に「文章」を放り込む事の意図がポイントになってくる。

「ブログ」に「文章」を放り込む事によって、何らかの反応・反響といったものが返ってくる「可能性」がある。

私はその反応・反響に影響されたくないので、できる限りその「可能性」が低い状態が望ましいと思っている。

それでもその「可能性」がある事によって、ある程度(拙いながら)文章に形を整えようという圧力をかけているのであると思われる。

これが守られた安全な空間で行われる文章の構築であれば、外圧の無さにより形を保てないのではないだろうかと思う。

なのでブログに書こうとして下書きのままのメモなどが散らかっているが、それはそれでいいと思っている。

書ききれなければ、何か足りない物があるという事で、足りないパーツをどこかで見つけるきっかけにもなるだろう。

「ブログ」を書こうとしてモヤモヤっとした何かを、「文章」という物に構造化する事によって、自分の考えを定着させ、眺める事が出来るようになる。

私がブログを書く理由とは何か?

私は、私の考えを知りたくてブログを書くのかもしれない。このように私の考えは穴だらけなのである。

これを見直すのはめんどくさいな。